人的資本の向上に向けて

  • 河合 江理子
  • 京都大学大学院・総合生存学館教授
  • 聞き手:内閣府政策統括官(経済社会システム担当)付参事官(企画担当)中澤信吾

2017年1月、経済財政諮問会議において、「2030年展望と改革タスクフォース報告書」が報告されました。本報告書は、2030年やそれ以降の将来を見据えた、産業、働き方、健康・医療、科学技術などの各分野における政府内外の調査報告やビジョン等も踏まえ、特に、経済社会全体に広くまたがる課題を検討したものですが、報告書の取りまとめに際し、タスクフォースのメンバーとしてご活躍頂きました、河合教授にお話を伺いました。

人間力の強化に向けては、異文化交流も重要

画像:京都大学大学院総合生存学館教授 河合江理子

—報告書の中では、「人材こそが最大の資源」として、人的資本の重要性を指摘しています。ご自身の経験も踏まえ、人的資本の向上に向けて何が重要となるかについてお考えを聞かせてください。

(河合氏)私は、日本の公立高校を卒業し、ハーバード大学に留学しました。そこでは、「リベラルアーツ教育」を受け、批判的思考力やチャレンジ精神、また、単なる知識を学ぶのではなく、常に新しいことを学ぶといった姿勢を教えられました。そうした経験を踏まえることにより、フランスのビジネススクールをはじめ、イギリス、ポーランド、スイスなど、異なる文化・言語圏で仕事をすることができたと考えております。特に、INSEAD(フランスの経営管理大学院)では、それぞれに異なる個性を持ったヨーロッパの学生と深夜まで政治、ビジネスに関する議論を続け、寝食を共にすることにより、異文化、多様性に慣れるという貴重な体験をしました。相手を説得しなければならないので、なかなか難しい経験でしたが、学んだ専門知識よりも、異文化に触れ、欧州のエリートたちと切磋琢磨する環境におかれたことにより、人間力が飛躍的に伸びたと感じております。

—河合先生が在籍されている京都大学大学院・総合生存学館(思修館)について教えてください。

(河合氏)思修館は、グローバルリーダー養成のために2013年に京大に設立された修士博士一貫の5年制の全寮制大学院です。今まで大学院は「I字型」という、狭い範囲の専門知識をもった研究者を育成していましたが、思修館ではT字型人材の育成をめざしています。T字型とは、専門分野に加えて、移転可能な能力(Transferable skills)と言われるコミュニケーション能力やチームワーク、リーダーシップなど非認知能力を育成しています。そのために研究活動の他に、夏季の短期インターンシップや、1年間の長期にわたる国際機関などの海外でのインターンシップを学生に義務付けています。

—日本では、異文化に触れる機会はまだ少ないですし、誰もが海外留学を経験できる機会に恵まれているわけではありません。そうした中、日本国内にいながらグローバル化に対応するためのスキルを育成していくためには、どういうことができるでしょうか。

(河合氏)現在、日本国内にいる外国人の方については、働いている方が100万人以上、また、生活している方は200万人程度となっておりますが、そうした外国人の方と様々な機会で接することが必要ではないかと考えています。外国人の方をサポートしたり、また各種コミュニティーへの参加を促すことにより、日本文化について理解を深めてもらうとともに、我々日本人も外国の文化を理解することが重要だと思います。

ハーバード大学では、大学側も私のような日本人を1人入学させることによって、学生に多様性を教えることができると考えていました。日本にいても、外国人の方と積極的に接することによって、留学等を経ずとも、異文化や多様性など、様々なことが学べると思います。できれば若いうちに海外に出て違う視点で物事をみる機会を得て欲しいと思っています。留学だけではなく、ワーキングホリデーのように費用のかからない海外経験も勧めたいと思います。

我が国における人的資本の課題について

画像:内閣府政策統括官(経済社会システム担当)付参事官(企画担当)中澤信吾

—河合先生には、タスクフォースの中でも「未来の人財(Human Capital)育成への提案」というテーマでご発表を頂きましたが、国際的に見て、日本の人的資本に関する課題はどこにあるとお考えですか。そうした課題を解決するためにどのような取組が必要でしょうか。

(河合氏)人的資本を考える上での課題の1つとして、そもそも、国際比較をすると、我が国の場合は教育への投資が少ないという点が挙げられ、教育に携わる者として非常に危惧しております。加えて、就職時に学生時代の成績を要求しない、受けた教育レベルに対応しない(例えば博士号を取得したとしても初任給の差が小さい)など、企業が高等教育の価値を十分に認めておらず、企業と大学との連携が十分にとれていないといった点も挙げられます。大学とビジネスに距離があるため、せっかくの研究や発明が十分生かされず、大学発のベンチャーが育っていないという現状に繋がっていると考えています。また、従来の暗記型の教育や試験制度により、正解主義に偏り、問題解決力や問題を定義する力が弱いと指摘されています。

タスクフォースに参加された新井委員が、中高校生が教科書を読めずに、入試試験問題の意味がわからない、つまり読解力のない学生が多く、AIの浸透によって、基礎学力がないとロボットの下働きになってしまうという指摘をされたように、初等・中等教育の重要さを強調したいと思います。英語力やプログラミングの訓練も大切ですが、まず国語でしっかり考える能力、論理性を養わなければいけないという意見には賛成です。子供たちに未来社会を担う確実な学力を定着させることを目的とした教育政策は、科学的な根拠(evidence based)に基づき、判断し、恒常的に見直し、改善する改革システムを確立すべきといった旨の指摘は、非常に大切であると考えています。

—今後さらなる発展が期待されているICTは、我が国の人的資本にとってどのような可能性とリスクをもたらすと考えていますか。

(河合氏)ハーバード大学やスタンフォード大学、日本では東大や京大では、EdXやCourseraというオンライン教育(e-learning)を発信しており、ウェブサイトで有名教授の授業を無料で受けられるようになっています。これにより、学生はわからない点を復習したり、空き時間で勉強ができ、また、教員にとっても負担が減るなどの効果が見られています。さらには、学生が授業の前にウェブサイトを通じて予習を行い、授業の場では予習の際に理解できなかった点等を中心に議論することにより、教育効果が高まると考えられています。

その一方、ウェブ上で世界最高の知識が学べるとなると、教育者は何を目指すべきかといった課題が出てきます。実際に大学へ行く必要があるのでしょうか?私は、そうした状況での教育の場は批判的に考える力や自律的な学習方法を学び、切磋琢磨する場であって欲しいと思っています。

他方、ICTを活用することにより、海外に留学しなくても、卒業単位が取得できるとなると、日本の大学にとっては新たな競争相手が増えることにも繋がります。また自動翻訳の可能性を考えると、日本語の壁に守られていた教育界には厳しい環境になると思います。最近では、「フィンテック(FinTech)」と同じように、「エドテック(EdTech)Education+Technology」が話題に上っており、テクノロジーの急激な進化により教育の方法も劇的に変化していくと思いますので、そうした最先端の動きに注目していきたいと考えております。

我が国における労働市場の課題について

—河合先生ご自身も、様々な文化圏で仕事をされたとのことですが、日本の労働市場にはどのような課題があるとお考えでしょうか。また、その課題を解決するためにどのような取組が必要でしょうか。

(河合氏)日本のホワイトカラーの長時間労働、また時間あたりの生産性の低さには問題があると考えています。生産性が低いと、給料はあがりません。また人口が減少局面に入った日本では、生産性をあげないと経済成長はできません。高い専門をもった人材に雑用をさせるなど、適材適所がなされておらず、IT化されずに必要のないプロセスが放置されている事務現場に行き当たります。経営手法を改善して生産性を上げる努力をせず、低賃金で雇用している経営者が多いと思います。スイスや北欧のような高賃金な国では高い給料を払うために、教育に投資し働き方を工夫して、生産性を上げる努力をしています。日本の生産性が低い理由はたくさんありますが、AIなど技術革新が進む現在、ホワイトカラーの生産性を上げる努力をする必要があります。日本の場合、経営幹部や幹部候補生に対するマネジメント教育が充実しておらず、十分な研修機会がありません。日本の企業の中ではOJTで十分と考えているところがあると思いますが、現在の変化の激しい社会では、常に上司から教えられる訳ではなく、外部の専門家から学ぶ必要があると考えています。

私が働いた国際機関の1つでは、自分が希望し上司が必要と考えれば、毎年1週間程度研修の権利があり、私も企業幹部が出席するビジネススクールの研修を受けたこともあります。研修機会を増やすためにも、教育訓練休暇制度が必要であると考えています。日本では、多くの人が長期休暇もなく仕事をしていますが、これからは物事を広い目で見るとか、これまで身に付けてこなかった新しいスキルを身に付けることなどを目的として、教育訓練休暇制度を導入していく必要があると考えています。特に、知識は一度身に付けても、時間とともに陳腐化してしまう恐れも多いので、生涯教育の強化が必要と考えています。

もう1つの課題は、日本では労働市場の流動性が低かったため、転職、中途採用の人材がうまく活用されていないことです。転職がキャリアアップにならない例も多いため、ベンチャー企業に就職してみようと考えても、雇用の不安定などから、大企業に就職する学生が多いと聞きます。失業した時のセイフティーネットも十分整備されていません。日本では流動性が低かったことから会社は人材に投資ができたという人もいますが、現在は産業変化が短期間で起こり、終身雇用は難しくなっています。視野を広くするためには、異なる企業文化、業種を経験することは大切と考えています。例えば大学の先生や公務員も、企業で働くということを経験することによって異なったスキルを身につけ、相互理解も深まり、人的ネットワークもできます。

—人材の育成・活用に関してモデルケースとするべき諸外国の事例などがあれば紹介ください。

(河合氏)流動性が高くなると失業のリスクも高くなります。そのためには、失業保険とさらにスキルアップできる職業訓練・研修を提供しなければなりません。社会にとって良い流動化にするための環境整備は必要です。北欧では積極的な教育投資により、高い生産性を可能にしています。私が長く働いていたフランスでも1企業で1年以上働くと、年に20時間ぐらいの職業訓練を受ける権利が法律で定められており、費用は企業が負担します。失業すると、失業保険だけでなく、ITや語学学校、マネジメント研修など、自分の専門、レベルにあった授業を、企業研修を提供する専門学校で受けられます。

—生産年齢人口が減少する日本では、高齢者の方の就業が重要になってきますが、一般的に若い世代に比べ高齢者は変化への対応力が弱いと考えられています。今後、ますます変化が激しくなる社会において、高齢者の方の就業促進のためには、どのような事が必要であるとお考えでしょうか。

(河合氏)高齢者の方の能力を活かすことができる仕事とのマッチングを進める必要があります。また、高齢者の方が働きやすい環境を提供することも重要です。例えば、週40時間働くことは難しくても、その半分の20時間であったら働くことができるかもしれず、そういった高齢者の方にとっても働きやすい環境を整備し、希望する人には長く働いて頂くということが大切であると考えています。またITを使えば自宅で勤務することも可能になっています。そのためにはITスキルなどの訓練の機会を提供することは大切です。時間、場所のフレキシビリティーを高めれば、高齢者だけではなく、子育て中の女性、親の介護をする人達などの職業の選択が広がると思います。今までのように専業主婦に支えられた成人男性の仕事のスタイルから様々なライフスタイルに合わせた働き方を考える必要があると思います。

—本日は貴重なお話をいただきました。ありがとうございました。

(本インタビューは、平成29年2月8日(水)に行いました。)

画像:インタビューの様子

(注)「2030年展望と改革タスクフォース報告書」は以下のページからご覧いただけます。
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/2030tf/report/report.pdfPDFを別ウィンドウで開きます