国際共同研究インタビュー

  • 松井 彰彦
  • 東京大学大学院 経済学研究科 教授
  • 聞き手:内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官 野村 裕

内閣府経済社会総合研究所では、2025 年以降に向けた財政・社会保障制度に関する国際共同研究として、持続可能な制度あるいは制度と市場の関係性の再構築について、内外研究者からの論文執筆協力を得て、実証的・理論的知見の拡充に資する研究を行いました。

今回は本研究プロジェクト主査の松井彰彦 東京大学大学院経済学研究科教授にお話を伺いました。

国際共同研究プロジェクトの狙いについて

画像:東京大学大学院 経済学研究科 教授 松井 彰彦
(松井教授)

―本日は、今回の研究プロジェクトの狙いと、異文化交流の在り方、ちょっとコロナの話題と、あとは政策研究をどういうふうに考えたらいいか、などについてお伺いできればと思ってございます。よろしくお願いいたします。

早速、最初に今回の研究の狙いというところですけれども、私の理解としては、もともと政府の中で社会保障制度をどうしたらいいか、2025年ぐらいまでは大体議論があって、こういうことをやっていきましょうねというのがあるのですけれども、そこから先が手つかずの状態というのが正直あるので、土台をつくるような研究プロジェクトをやりたいなという提案をして、それで面白そうだから、やってもいいよということになりました。

ただ、研究プロジェクトなので、よくあるような普通の審議会とかそういう話ではないので、もう少し一からというか、少し新しい、骨の太いプロジェクトになるといいなと思っていたのです。

それで、もう2年前に御相談させていただいたとおりですけれども、松井先生の自立と依存という御議論を目にする機会がありまして、結局、社会保障制度というものはある意味、老後がどうとか、疾病とか障害に対して依存先を提供しつつ自立を支える、言ってしまえばそういう仕組みかなと思いますし、その依存先が限られているという状態は不健全で、広い意味での市場機能が機能すると、それがもっとより健全な形でワークするのだというお話で、こういう議論はあまり聞いたことがないなと思いましたものですから、それで先生に御相談にお伺いしましたということだったかと思います。

私のほうの最初の理解はそういうことだったのですけれども、やっているうちに、松井先生的に言うと、君が言っているその話は済んだ話で、研究成果なりいろいろあるからそっちを読んでねということで、その先のことを狙うというか、考えようとされているのかなという気がだんだんしまして、どこに着地するのかということも含めてもう先生にお任せをしたほうがいいなというふうに途中から考え方を変えたというのが私の理解です。

先生として当初お考えになったこと、途中にお考えになったこと、あるいは今の到達点なり、その辺についてどんなことを考えていらっしゃるか、クエスションとしてはそういう形で今回の研究の狙いをお伺いできますでしょうか。―

(松井氏)よろしくお願いします。

社会保障制度にしても、様々な制度にしても、何となく一つの制度で全部、この制度を使うとこうなるみたいな議論はあるのですが、制度間の連関といいますか、もう一つは我々がテーマにしている包摂性という点から考えると、議論をもう少し違う角度からするものがあってもいいのかなと。そういう意味では、主流でない議論がもうちょっと重要で、それができればなというのが簡単に言ってしまえば一番の狙いです。逆に言うと、主流からちょっと外れたような議論もかなりしているというところで、むしろそれを聞いた方あるいは読んだ方が何か酌み取って、政策担当者なら政策に、研究者ならは研究にヒントとして生かしてもらえればいいかなというのが一つの大きな眼目です。

そういう意味では、何を狙っているかというと、何か制度を提案してこうしましょうよというよりは、こういう物の見方もありますよ、そうしたときにこうなりました、あるいは過去にこうなりました、あるいはこれからこうすればこうなりますというのを部分的にでもいいから何となく示せれば一つの成功かなと。

ただし、それは今まで行われた議論ではなくて、ちょっと目先を変えたような議論を提示できればいいかなと思いました。なので、人選も、中には御活躍の方ももちろんいらっしゃいますけれども、どちらかというと政府の政策の現場に携わっているような方ではなくて、もう少し研究のほうで一線でやられている方で、かつ、そういう制度の問題とか政策の問題に関心がある方にお願いして参画していただいたというところがあると思います。

―あえて主流ではないというお言葉を選ばれたのですけれども、制度とは何かとか、市場とかは何かみたいな、本当にベースになる御議論をいただいたかなと思っていますし、議論の成果をとりまとめた「経済分析203号」はほかにない成果物かなという感じがしていまして、本当に御指導を賜って、ユニークな新しいものをつくるという、研究ってやっぱりこういうものなのだなというのが非常に勉強にもなりました。関係者に御紹介もしつつ、こういう考え方もあるのかなというのも参考にしていただけるようであれば非常にありがたいなと思っています。―

(松井氏)ありがとうございます。

そういう意味では、主流かどうかというよりは、研究なんかは常にそうですけれども、人と同じことをやっていては意味がないというところがあって、そういう意味で今までやられてきた議論、もう浸透しているような議論はそういう方にやっていただくとして、我々はそうではなくて、新しい示唆を何か与えたい。そこが一番の狙いと言えば狙いで、こういう考え方もあるなら、我々がつくっている制度というものもこういうふうに考え直してみたらどうなるだろうかというのを考えるきっかけになっていただければいいかなと思っています。

制度と市場の関係性について

画像:内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官 野村 裕
(野村総括政策研究官)

(松井氏)その際に、繰り返しになりますけれども、(経済分析203号の)エディトリアルにも書きましたが、制度と言った場合に、つい、特に官僚の方は、制度と言うと官僚がつくり上げた制度みたいなものをイメージしがちなのかもしれませんけれども、ここで言う制度というのは、人々の行動規範とか幅広の慣習とか、そういうものを含めた概念というのを一貫して取っていて、そういうところまで制度というのを視野を広げて見ることが大事かなと。

一つには、隠れたというのも何だけれども、一つのメッセージとしては、やはり経済学というのが社会科学の一つであり、社会科学の中でも経済学は理系に近いとも言われますけれども、基本的には世の中を見る「物の見方」を提供している学問で、それはほかの社会科学の、今回であれば半分ぐらいは他分野の方を招いていますけれども、それもそういういろいろな物の見方を提示されている方々なので、それを学びながら制度というものを改めて考えてみようというのが狙いです。

その際に、経済学に引き寄せてしまいますけれども、経済学の一番の根っこに何があったかというと、アダム・スミスの言葉が大変重要で、「人間社会という巨大チェス盤においては、それぞれの駒がそれ自身の行動原理に従う。それは為政者が押しつけようとするものとは異なるものである。もしこれらの原理が合致するならば、人間社会というゲームはたやすく調和的に進行し、幸福で成功するものとなるであろう。他方、これらの原理がうまく合致しないとゲームは惨めなものとなり、社会には無秩序状態が訪れるであろう」ということをアダム・スミスが『道徳感情論』という『国富論』とは違うもう一つの主著のほうで言っていて、人間社会をゲームになぞらえた上で、普通のチェスであれば為政者、チェスのプレーヤーが駒を動かせるのですけれども、人間社会というチェス盤では為政者が駒を動かせるわけではなくて、それぞれの駒がそれぞれ自身の行動原理に従っている。それ自身が制度であって、その制度というものをよく理解しないで政策を打つと大変な齟齬が生じるというか、『道徳感情論』に書いてあるように、社会に無秩序状態が訪れることにもなってしまう。そういう観点から制度というものをきちっと、そういうインタラクションの中で考えていかないといけないというのが一つあって、それが通奏低音のように多分この論文集の中に入っているのかなと思っています。

―エディトリアルで、社会はどう包摂的であるかということを考えるときに、市場は必ずしも主役である必要はないということを書いてくださっていたかと思います。一つは、他分野の先生にもいろいろ入っていただいて、経済・経済していない形でプロジェクトを進めていただいたので、あまり「市場」という言葉にこだわる必要がないという意味合いなのかとも思ったのですけれども、今のお話をお伺いしますと、市場というのもある意味一つの社会における制度にすぎない面があって、制度なのか、市場なのかという議論の仕方ではなくて、社会の中で、チェスの駒とおっしゃられましたけれども、一人一人がどういうふうに活躍ができているとか、一人一人を分け隔てなく社会が包摂しようとどれだけしているのか、大事なのはそういうことであって、結果として制度なり市場がどういうふうに用意されてどういうふうにワークするのかというのは、それは後からついてくるもので、市場が必ずしも主役である必要はないというのは後者の意味においてというふうに理解したらよろしかったですか。―

(松井氏)そうですね。まさにおっしゃるとおり、市場も制度の一つ、市場制度と呼んでもいいと思いますので、後者はワン・オブ・ゼムだと思っているのです。もちろん非常に重要な制度ではあるのですけれども、それだけを突出させる必要はないし、ましてや制度バーサス市場みたいな対立項みたいな感じで考える必要は全然ない。あるいは、考えるべきではない。そういうイメージです。

異分野交流について

―そこは何となく制度バーサス市場みたいな考え方が優勢というか、流布しているような気がして、今にしてみますと、言葉遣いとしても何となくはっきりしない言葉遣いだったかなという気がして、そこははっきりそういうふうに論じていただいたというのは、そのこと自体がすごく勉強になるというか、議論の契機になる論点なのかなと非常に思っております。

次の論点に移らせていただいて、異文化交流の話をお伺いできればなと思ったのですけれども、今のお話をお伺いしていますと、先生にとっては必ずしも異分野の先生方に集まっていただいたというかんじではないのですね。―

(松井氏)いや、訓練は違うので、トレーニングが違うので、使う言語も違います。法学と社会学の人では同じようなことを言っているのに使っているターミノロジーが違うので、全然違う話をしているように聞こえるというところがあって、それはちょっともったいないかなという気がして、そこは意識的に毎回皆さんに注意してもらいながらやったというところはあるのです。いろいろな分野、いろいろな角度から社会という問題を見るのは、私は大事だと思っています。

ただ、いろいろな角度から見て、見っ放しよりは、見たものをお互いに持ち寄って、どういうふうに見えたというのをお互いに見ないと、「木を見て森を見ず」、それぞれみんな一本ずつ木を見ているのだけれども、それが集まって森になっているのに木の部分しか見えないというところも出てきてしまうので、そういう意味でいろいろな分野の方が参画すること自体に私は意味があったと思っています。その際に、言語が違うために意思疎通ができない、相手のことが理解できないというのは大変不幸なことなので、そこは気をつけていただくようにと思いながら司会をやらせていただいたというところはあると思います。

―社会をよくしよう、世の中をよくしよう、そういうことを同じように考えていたとしても、言語が違うと言語が違う人同士で議論をすると効率性が落ちるというか、生産性が落ちるというか、仕事としてそれを手がけるのは結構大変かなという気がするのですけれども、松井先生はそういうプロジェクトをたくさん手がけていらっしゃる印象を持っているのですが、それはあえて自分に課していらっしゃるのですか。―

(松井氏)私は多分そういうほうが好きなのですよ。自分に課しているという感じではなくて、そういうほうが好きで、新しい視点をもらえるというのがあって、ほかの分野から学べることのほうが多いかなと。そのためには、言語の多少の違い、細かいところというと怒られますけれども、目をつぶらないといけない部分があるという感じで、いろいろな分野の方と交わっていろいろな見方をしたい。

私だけでしていても何も周りに広がっていかないので、今回の狙いのほうにも関わるのですけれども、いろいろな分野の人が交流するというのが一つの狙いで、成功したかどうかは分からないのですけれども、そういう試みを続ける必要があるのかなと。

それは障害のプロジェクトのときからそうで、あのときも社会学、経済学、法学、医学、教育学、そういう人たちが交ざっていたので、そういう意味ではそういう人たちの間で議論を交わすというのは大事かなと。

自分と同じ言語の人たちと話しているほうが楽だし、居心地はいいのです。それでもいいのですが、皆さんも巻き込んで、皆さんにも別な言語を学んでいただきたいというのがもう一つのこの研究の狙いです。

―例えば、熊谷先生が「障害者支援は依存先探しというか、そこの苦しさを考えるのが自分の一番のモチベーションだ」というお話をされていたときに、飯田先生が、「制度というのは冗長性がある程度あったほうが制度として有効性が高くなるのだ」といったお話をされていたときに、「それは同じ話をされていますね」という話をされて、私は最初、にわかによく分からなかったのですけれども、お話を伺っているうちに、「そうか、そうか、これとこれが同じことを議論しているということなのか」というのが、しばらくしてようやく理解をしたのです。そうか、異文化交流ってこういうことなのだなと思って、あのとき、すごくある種の感動を覚えたのです。

でも、それって訓練とか、多言語が理解できる人でないと、翻訳機能というか、何というか、だけどあの場で飯田先生と熊谷先生は、先生のおっしゃるとおりですねとすぐにおっしゃられて、私はついていくのに少し時間がかかったのですけれども、その辺の翻訳能力というか、多言語能力というか、それはやはりセンスとか、訓練の賜物なのですか。―

(松井氏)それは何とお答えしたらいいのか分からないのですけれども、熊谷先生も飯田先生もほかの分野の人と付き合いがある方で、かつ、易しく話をする。相手が分かるように相手の立場に立って話をするというのが得意な方なので、それも能力、センスであり、トレーニングだと思うのですけれども、そういう方同士であればそういうふうに話が通じ合える。だから、お互いに熊谷先生は飯田先生の立場に立って理解しようとするし、飯田先生は飯田先生で熊谷先生の立場に立って理解しようとする中で、違う言葉で全く最初はつながらないようなことを言っていたように見えたのですけれども、実は私も聞いているうちに、この二人は同じことを言っていないかみたいな感じに聞こえてきて、彼らがお互いに共鳴し合った。あれを野村さんも覚えていらっしゃるというのは私も非常に喜びですけれども、私にとっても非常に印象的な場面でした。

―役所の研究会なり、審議会なり、勉強会などでありがちなのは、有識者として呼ばれているのだからということだとは思うのですけれども、結局、一方的に御自身の主張を述べられて終わりで、研究会のメンバーの相手の立場に立って会話が成り立つというのはあまりないような感じがするのです。異分野かどうかにかかわらず、その場のつくり方ということなのですね。―

(松井氏)そうですね。だから、私はお互いにコミュニケーションする会ならいいのだけれども、キャッチボール的なものができないと、一方的に知識を披露しているだけではお墨付き機関みたいなもので、それはそれでいいのかもしれませんけれども、そういう人がやればいいと、そういう感じで考えていました。

―そういう意味では、ずっとコロナ禍でということになってしまい、最初にプロジェクトを立ち上げるのに、例えばフェイスブックでもやると面白いかもねとおっしゃっていただいていて、今から思うと、もうちょっとキャッチボールができるような工夫みたいな、先生の障害者のプロジェクトとかダイバーシティのプロジェクトは、わざわざ専用のホームページをつくってツイッターで好きにいろいろと書いてみたり、キャッチボールってこういう感じなのかなというのは後から気がついたというか、せっかくあれだけの先生方が集まっていただいて、もうちょっと何かできなかったかと反省しています。―

(松井氏)難しかったですよね。本当は対面でやって、その場だけでもお互いの顔を見ながら、相手は今何を考えているんだろうなと思いながら、顔色とかその場の雰囲気を感じながらやれるほうがよかったというのはもちろんそうです。

―対面と画面を通じてだと、やはり情報量は違うかなと。―

(松井氏)何がそうなのか分からないですけれども、やはり全然違いますよね。

―ただ、反省すべき点はいろいろあって、せっかくのプロジェクトでも十二分に事務局機能を果たしたかどうかというのは、正直反省しないといけないことはいろいろあるなとは思っているのですけれども、終わった後にほとんどの先生が面白かったとか、こういうのに声をかけてくれてありがとうみたいなメールをくださったのは嬉しかったです。―

(松井氏)そう言っていただけると、ほっといたします。

コロナ禍を巡る問題について

―次の論点に移りまして、コロナの話を、どんなことをこの2年間お考えでいらっしゃったかという辺りをお伺いできればと思います。

こういう状況になってしまったので、途中から、社会保障、医療、福祉、教育、そういうテーマでやっている研究会なので、何の言及もないというのもどうしたものでしょうかねという御相談をさせていただいて、今から無理繰りやりそれを正面から論じるというのもなかなか難しいかなということではあるけれども、頭の隅に置きつつプロジェクトに取り組む、そういうことなのかねというお話をしていただいて、先生方に無理にコロナのことも触れてくださいねとお願いするみたいなことはやめておきましょうということだったと思うのですけれども、その後に、明治期の脚気の話をもう一本追加で書いてもいいですかというお話をいただいて、私は全然不勉強で、確かにあれも、日露戦争のときに戦死者に匹敵するぐらい脚気の死者がいてという、すごい話だなと思いましたけれども、規模なり原因がよく分からないとか、それに対して社会としてというか、制度としての対応がうまくできたのか、できなかったのか、そういう評価というか、視点の置き方みたいなこととか、こういう論じ方があるのだと。あの辺の着想なり、お考えになられたことをお伺いできればと思います。―

(松井氏)あの脚気の論文に関しては、私の共著者の村上さんのほうが着想を得ていて、もともとはビタミンの問題とか、村上さんはゲーム理論もやっているのですけれども、ゲーム理論を使いながら経済史、歴史、制度みたいなものを比較して分析するというのを博士論文テーマにしていて、脚気の話を持ってきたのです。それ自体はコロナの前から着想はあったと思うのです。

要はどういうことかというと、知識が不確定なときは制度の影響を物すごく強く受ける。だから、制度によって結果が大きく変わる。知識が確定していると、どんな制度をつくっても似たような対応ができるのだけれども、知識が不確定だとどういう制度が捉えているかによってかなり結果が違ってくる。それの一つの大きな事例として脚気問題があって、陸軍と海軍で違う制度の下で運用されていたので物すごく違う結果が出てきてしまったというところがあった。そういう意味では、制度は青木先生の言葉を使えばinstitutions matterということなのだけれども、特に知識が不確定なときにそれが顕著になるというのを示したいというのがあって、それがコロナと並行して考えを進めていったところで、コロナ問題に直接応用しようというのもなかったし、まだ、コロナ問題に関しても知識が不確定なところが非常に多いので、同じような問題が起こり得る、制度によって随分変わり得るというのが一つバックグラウンドとして常に頭の中でちらつきながら、脚気の論文を書いたというところはあります。

―確かに、医療と保健衛生をやっているところの連絡の悪さとか、病床の話も、感染症病床というのは必ずしもあまり目配りされていなかったり、病床が不足していますと言っても、世界でも指折りの病床がたくさんある国なのに、何でそんなことになっているのかとか、今まであまり問われていなかった、制度として当たり前と思っていたのが、新しい問いを突きつけられて何となく混乱しているみたいな話なのだろうと思うのですが、それは医療行政をやっている人とか保健行政をやっている人のでき得る最善を尽くしてやっていらっしゃるはずなのだろうと思うのですけれども、毎日毎日批判ばかり浴びて、どうもありがとうというようなことが全くないのは本当に気の毒な状況だと思いますけれども、それは制度が問題なのだということなのですね。―

(松井氏)制度というのは、繰り返しになりますが、制度をつくるのは官僚という意味で使っているその制度ではなくて、国民みんなで、国民というか、一人一人の集まりとしての社会が制度というものをつくっている。そこに官僚ができることは限られていて、特に今回みたいな知識が不確定な状況が起こってしまう、今までと違う状況が起こってしまうと、最適な制度なんて考えている暇がなくて、日々忙殺される中で制度が勝手にエボルブしていく、進化というか変化していく、そういう状況が実際にあって、そこはやはり我々経済学で言う均衡状態ではない状態なので、それには留意して物事を考えていかないといけないのかなと。

だから、経済学でコロナの問題についていろいろ言っている論考はありますけれども、均衡という概念からなかなか経済学も抜け出さないので、こういうふうな不確定な状況が起こってしまうと、どうすればいいのだろうというので最適解はなかなか見つからない。多分最適解は、コロナが収束して数年、数十年たってから初めて、あのときこうすればよかったみたいな話になってくるのではないかなと思います。

ゲーム理論の使い方

―先生がおっしゃる制度というときに、世の中の多くの人たちが選択をしようとする行動の仕方というか、振る舞い方みたいなものも含まれるのですか。―

(松井氏)「多く」というのをつけるかつけないかというのは、そのときそのときだと思うのですよね。だから、多くである必要は全然ないのです。

例えば、我々が分析した脚気の話で言えば、制度というのはあくまでも医学制度といいますか、もうちょっと狭い軍医制度と言ってもいいぐらいのレベルの話なので、そこに関わっていた人は社会全体から比べればほんの一握りですが、そこで関わっていた人たちの制度の在り方によって多くの人が影響を受けて、実際に何千人、何万人という人がそれによって影響を受けて亡くなってしまったということがありますので、必ずしも多くの人が取っている行動とか、それだけではないと思うのですね。ただ、制度というのはそういう意味で幅広の概念で、多くの人が取っているようなもの、つまり、大通りで赤信号だったら渡らないというのも一つの制度と言ってもいいと思いますし、さっきの医学制度のような狭いような制度もありますし、そういう意味では、制度といったときに、制度という言葉で全部話を終わらせようとするのではなくて、どういう制度かというのをきちっとそこからさらに特定化していかないと、議論が拡散してしまうのかなと思います。

―例えば、人々の振る舞い方というのを、社会的に見て一つの制度なり、規範なりみたいなものとして捉えることができたとしたときに、それに対して作用を与えることができるものは世の中に存在すると思うのです。例えば今の状況で言うと、マスコミとか報道みたいなものが人々の振る舞いなりなんなりに相当程度の影響を与えているような気がするのです。マスコミとか報道とか、人々の振る舞いに作用を与えるものは、経済学的に言えば何だと捉えればよろしいのですか。―

(松井氏)作用というのは、個人なり、組織なりの力になっていくのではないですかね。それも結局大きく見れば制度の中、小さい制度、狭義の制度を考えれば、狭い制度の外から個人の影響を与えるという考え方はできると思うのですね。

―報道の在り方みたいなものも。―

(松井氏)それも一つの制度という見方は当然できると思います。だけれども、例えば、病床数の多寡を考えるその部分は一つの病院制度なり、そういう制度を見れば、そこに影響を与えるのがマスコミであったり、政治家であったり、世論であったりというふうになっていく。

ただ、広く見れば、日本社会全体という制度の中では全員がその中に入っているメンバーですから、そういう意味では制度というのは誰が制度の外か中かというのはどの制度を考えるかに依存しているところはありますよね。

だから、制度に作用する人たちも含めた制度、そこにさらに作用するのは何かというと、それに作用する制度というものを考えられて、そうすると何か無限のチェーンみたいなものができてしまうというのはあると思います。

青木先生もよく言われていましたけれども、制度はどうやってつくられるか、どうやってつくるか。制度の決め方という問題を捉えたときに、制度の決め方を決めるのはどうするのか、決め方の決め方、それの決め方ということで、論理的に考えると無限退行が起きてしまう。

物事を明瞭に論じるときにはどの制度か特定化して、その上で、ゲーム理論風に言えばプレーヤーを配置して、誰がその制度に影響を与えられるか、あるいは誰がその制度の中でのプレーヤーかを考える。

―こういう不確定な状況であればあるほど「制度が問題である」とだけ発言してもあまり理解されないというか、特に霞が関だとすごく誤解を招きそうな気がするので、そこは御示唆をいただいたというぐらいにとどめたいと思います。―

(松井氏)ゲーム理論だと分かりやすくて、ゲーム理論は必ず誰がプレーヤーか、それぞれのプレーヤーが何をできるか、その結果何が起きるか、この3つを記述するとゲームになるのですね。制度も同じだと思うのです。制度の構成員は誰か、その構成員は何をするか、その結果何が起きるかというのを考えるのが一つの制度の分析の在り方です。

―それは分かりやすいですね。―

(松井氏)ゲーム理論を使うメリットは、そういうふうに整理ができるということです。ゲーム理論のモデルをつくった時点で、モデルをつくった人が誰を制度の中身の人間、「中の人」とよく言うじゃないですか、中の人と考えていて、その人は何ができたかという選択肢を明示して、その結果実際に何が起きたか、そういうような考え方で制度を分析するのは、ゲーム理論を使った場合の一つの手法です。

―だから、今何ができたかとか今どうしたらいいというのは、そういう状況ではないかもしれませんけれども、そういうアプローチで今起こっていることを捉えるなり、分析するなり、評価していくことで、次に起こったときにどうすればいいか、そういうことが抽出できる可能性が高いということですね。―

(松井氏)そうですね。だから、政策現場の官僚の方々にもぜひゲーム理論的な考え方を、やっておられると思うのですけれども、それを提示していただいてもいいかなと思っていて、今言ったように、誰がプレーヤーなのかというのを考えないといけない。

私のゼミの後輩とかで官僚になった人間と話をすると、大体そういう話が出てきて、誰がプレーヤーなのと言うと、相手もすぐ話が分かって、このゲームでは何々会社と取引先の何々がプレーヤーで云々かんぬんという話が始まるので、それで頭の中で整理できるというのはありますね。

だから、病床問題であれば、一つはコロナ病床を提供している病院としていない病院というのがプレーヤーとしてあって、ほかにも政策担当者とかいろいろなプレーヤーがあって、その中の一つのゲームというふうに捉えると、病床逼迫問題も解決できるかどうかはともかくクリアに見えてくるのではないでしょうか。

政策研究の在り方について

―ありがとうございます。

最後になりますけれども、政策研究についてというテーマでお伺いできればと思います。

今回のプロジェクトは非常に勉強になって、特に一からみたいな議論だったので、2025年以降の議論は制約条件も何もない条件で物の見方みたいなことから御議論いただいてということで、非常に重要な成果を上げていただいて、本当に感謝申し上げたいと思っていますが、正直、松井先生にお受けいただけなかったら、とても私なんかにはあのメンバーに集まっていただくのは無理で、お声がけして、「松井先生と御相談したのですけれども」と言ったら、「じゃあいいよ」みたいな話で参加頂いた先生方が多いような気がするのです。

今は、とうとうと識見を一方的に述べていただいて、「はい、ありがとうございました」ということだけやっていても次に行けないというか、いま新しい議論がすごく必要とされているのではないかなと。霞が関は政策をつくるということはそうなのかもしれませんけれども、別にそれだけで社会が回っているわけでもないと考えればいいのかもしれませんが、政策をつくる、法律をつくるみたいな話にしても、すごく新しい知恵というか、工夫をしていかないといけない局面にあるのではないかなと思いつつ、有識者という先生方も、いつも同じようなメンバーでしたり、本当に最先端のやっていらっしゃる先生方はもうフィールドが違い過ぎるというか、距離が開きこそすれ全然縮まらないというような印象が、どの分野もそういうわけでもないのかもしれませんけれども、内閣府辺りにいるとどんどん距離が遠くなっているような印象を持ったりするのです。

今のアカデミックな成果なり知見と新しく政策を考えたいときの橋渡しというか、御相談の持っていき方というか、プロジェクトの組み方というか、そういったところにもし御知見なり御示唆をいただけるようであれば非常にありがたいなと思います。―

(松井氏)やはり一方的に知識を披露するみたいな審議会形式のものではなくて、双方向のコミュニケーションが欲しいですね。私も、今回のものも野村さんに執筆者の一人として加わっていただいたのも、やはりそこは重要かなということで、本当はもっと霞が関の官僚の方々にそういうペーパーも書いていただきたかったかなというのもあるのですけれども、そういう感じで本当は交流できればいいのかなと思っています。

官僚の方は日々のいろいろな仕事に忙殺されて、学者みたいに暇ではないので、なかなか論文を書く時間を取りにくいと思うのですけれども、いわゆる国際学術誌に出すような論文である必要は全然ないと思うのですが、そういうアウトプットを考えていただくというのは大変重要なのかなと。それをベースにまた議論ができたりもするので。

学者だと私も含めて、どうしても書いたものがないと評価しづらいと思ってしまう人も多いものですから、政策担当者として優秀だから話をぜひ聞きたいというふうに学者のほうから思うということはなかなか難しくて、ただ、何か書いたものがあれば、それをベースに議論できるところはあるので、そういうアウトプットも、そこが主務ではない方々にお願いするのも大変恐縮なのですが、そういうのは必要かなという感じはしますね。

―そこは気がつかなかったというと大変お恥ずかしいのですけれども、確かに経済企画庁だった時代に、先輩方はいろいろ物を書いたりという人が結構多かったという気がします。あの頃はマクロ経済学といったって、別に投資と貯蓄は均衡しますとかその程度を言っていれば別にいいのだから楽なものだよなみたいな、別に本を書いたとか書かないとか、対外不均衡と国内のバランスがどうのこうのとか、そんなものは学部レベルだよなんて批判をすることは簡単ですけれども、そうだったとしても、せっせといろいろ物を書いて、それで学者の先生に「何を言っているんだ」と吹っかけられて、ちゃんと論争をされていました。―

(松井氏)小宮さんとかは特に多かったと思います。よく批判して、でもちゃんと言い返していましたよ。

―していましたよね。小宮・赤羽論争とかやっていたと思うのです。―

(松井氏)それがなくなっている感じがします。

―確かにそうですね。―

(松井氏)そういう人が現れてきて、そういう人に物を書く時間を与えるというのも重要だと思うのですね。面白くて有益な論争ができるようなアウトプットをぜひ政策立案の現場からも出してほしい。それは官僚用語ではなくて、ちゃんとみんなに分かるような易しい言葉で、かみ砕いたもので出してほしいというのは要望と言えば要望ですね。

それが昔あったという記憶は私はあるのです。それはなくなってきたなというのも感じているので、これは私だけの感覚では多分ないと思うのですね。

―逆に、そこの努力を怠って、御協力くださいと幾ら叫んだところで、それは限られた方にどうしても偏ってしまうのは、それは致し方なしですね。―

(松井氏)要するに、物を書いて論争を吹っかけるというのははしたないことというイメージが官僚の方の中には一部あるのかなとも思わないでもなくて。

―論争を吹っかけるというのは、どういう。―

(松井氏)論考を書いて学者の言っていることに物申すみたいな、私はこう考えるみたいなものが、組織の人間なのだからここは匿名性を守ってというような意識が昔に比べて強くなっていて。そこはちょっともったいないな、そこは何とかならないかなと思っているのです。研究と政策立案の現場が乖離しているというのは、もしかしたらその辺りに原因があるのかもしれない。

―経企庁で言えば、宮崎勇さんとか、吉冨勝さんとか、大来佐武郎さんとか、ああいうふうに自分もなりたいなみたいなのがあって、かつ、そういう人たちは好き勝手に本も書いているけれども、割と中核的なところで仕事も手がけられて、すごいな、ああいうふうになれたらいいなみたいなのがありましたけれども、今はなかなか難しいですね。―

(松井氏)自由に書いてもいい時間が欲しいですね。裁量労働的なものは何かあったほうが。じゃないと、どんどん埋没していって、そうすると研究者も政策現場とのコミュニケーションが取れなくなって、どんどん疎遠になっていく。そういうのを書きたい人は外に出て書かざるを得ないというか、書いて外へ出ちゃうとか、そういうふうにならざるを得ない。それがあるかなという感じがします。

―非常に重要な取っかかりというか、そこの努力なしにうまくフックがかかるかというと、逆にそこがうまく引っかかればその次に行ける可能性があるかもしれないという、すごくいい御示唆をいただいてありがとうございます。―

(松井氏)だから、気にせずに物を言ってほしい。逆に言うと、政府としては物を言ってもいいような環境を醸成する、それが大事なのではないかなという感じがします。一人でいきなり物を言うと、変わったやつといって干されるだけで終わり、変人扱いされて終わりみたいなところがあるので、そうではなくて、そういうのがあるべき姿がみたいな。だから、これは太字にしていただいてもいいぐらい、メッセージを一つ出せと言われれば、そこかもしれないですね。政策の立案担当者が物申さないと駄目だ、コミュニケーションを取れなくなる。コミュニケーションが取れなくなると研究も政策に生かされないし、政策者の考えも伸びていかない。そこはぜひメッセージとして出していただければいいかなと思います。

―本当にそれをちゃんとやっていかないと、この国、先々大丈夫なのかなと。―

(松井氏)官僚になりたがる人がどんどん減って、うちの大学もどんどん志望者が減っているのですけれども、うちのゼミでもどんどん少なくなって、やはりちょっとというか、かなり気になりますね。

―霞が関だけで世の中は別に廻っているわけではなくて、起業したり、NPOをつくったり、若い人で面白そうなことをやっている人があちこちにいらっしゃったりしますけれども、だから、世の中をよくするというのは、官僚にできることは官僚にできることで、そうではないアプローチがいろいろあるのだろうと思うのです。ただ、やはり国家予算とか、法律とか、そういうのは大きいと言えば大きいので。―

(松井氏)そうなのです。バルクが大きいので。

研究プロジェクトを振り返って

―すごく重要な御示唆をありがとうございました。

先生、最後の質問というか、このプロジェクト自体は採点するとすれば何点ぐらいですか。すごく面白かったなと思う部分と、私の印象だと何となく中間生産物というか。もっとこの先に何かがあるのではないかという気がしたりもして。―

(松井氏)おっしゃるとおりだと思います。私は、研究そのものが中間生産物と位置づけているところがあるので、どこかに行く道の途中みたいな。そういう意味では、私は今回のはこれで丸をつけておいてあげたいというところがありますが、もちろんそれは手前みその話になってしまうので、その評価は私ではなくて他の方がされるのがいいかなと思うのですが、私は中間生産物という野村さんの表現は非常にぴったり当てはまっていて、むしろそこが一つ評価できるところかなと。つまり、ここから飯田先生なり、熊谷先生なり、ほかの分野と交流した方がもう一歩飛躍してくれれば、それが一番いいことかなと。

―お考えとても良く分かりました。本日は貴重なお話しをどうもありがとうございます。―

(松井氏)ありがとうございました。

(本インタビューは、令和3年5月14日(金)に行いました。)