動き出す、マクロ経済のダイナミズム

千賀 達朗
慶應義塾大学経済学部准教授


2025年6月、政府は「経済財政運営と改革の基本方針2025」(以下「骨太方針2025」)の閣議決定を行いました。今回は、慶應義塾大学経済学部准教授の千賀達朗氏に、骨太方針2025で掲げられた我が国が直面する諸課題への対応の在り方や関連するマクロ経済学の潮流等についてお話を伺いました。

トランプ政権誕生の背景と日本への示唆

(水田審議官)石破内閣において初めてとりまとめられた骨太方針2025では、日本を取り巻く国際秩序の変化と国際情勢の不確実性の高まりは、我が国の経済財政運営にとってのパラダイムシフトだと指摘しています。まず、日本を取り巻く国際情勢について先生のお考えをお伺いできればと思います。

(千賀准教授)経済学者の間でトランプ米政権が誕生した背景について議論を行うと、中国との貿易の影響が大きな要因として挙げられます。Autor, Dorn, and Hanson(2013)1)による「チャイナ・シンドローム」という有名なペーパーがありますが、米国では1990年から2007年に中国からの輸入が急増し、中国からの輸入品との競争にさらされた地域、ラストベルトと呼ばれる地域などで製造業の雇用が減少したと分析しています。こうした地域では、失業率の上昇や労働参加率の低下、賃金の低迷といった雇用への影響が続きました。こうした地域の労働者とそれ以外の地域の労働者との格差拡大が続いた結果、その不満の受け皿としてトランプ政権が誕生したのではないかという見方です。

 自由貿易は経済厚生を高めるものであり、その推進は引き続き重要ですが、これまで経済学がミスリードしてしまった部分もあるのではないかと思います。自由貿易によって得られるマクロ経済全体での経済厚生が議論の外に行ってしまい、特定地域に集中する弊害、ミクロの議論に焦点が集まりすぎてしまったように思います。同様の事象が我が国でも起きないようにすることが重要です。

 現在、トランプ政権が中国をはじめ世界各国に対し関税を引き上げ、貿易赤字の解消を求めていますが、貿易赤字はあくまでも経済活動の結果であり、その根本的な要因に目を向ける必要があります。米国より生産性が高い国が現れ、その国が消費や投資を十分に行わないとき、その国との貿易において米国には貿易赤字が生じます。現在の米中関係は1980年代の日本が直面した構図とほぼ同じです。中国や日本の消費・投資行動、そして米国の旺盛な消費行動という経済構造が変わらない限り、米国の貿易赤字は解消されないと考えます。関税政策だけで米国の貿易赤字が解消されることはないということを前提として、経済政策を考える必要があります。また、不確実性が高い中で多年度での官民連携投資などの枠組みを通じて、民間企業の投資を引き続き引き出していくことも重要だと考えます。

日本でも動き出した賃金・物価上昇のメカニズム

(水田審議官)ありがとうございます。骨太方針2025では、「賃上げを起点とした成長型経済」の実現を目指すこととしてますが、賃金や物価の現状についてお考えをお聞かせください。

(千賀准教授)現在、日本を含め、世界各国で生じているインフレは、コロナ禍に対応するために過度に積極的な財政政策と金融政策が行われた結果生じているという側面があると思います。日本では、長く続いたデフレの下で物価も賃金も硬直的でしたが、これらは日本経済の特殊性では決してなく、経済学で想定するメカニズムが日本経済でもようやく顕在化してきたとみています。

 企業の価格設定行動を説明するモデルとして、一定の閾値まではコスト上昇分を企業が吸収し、それを超えると初めて価格引上げを行う(S, s)policyと呼ばれる理論が共有されています。価格変更にメニューコストを伴うため、価格に硬直性が生じるというのも同様の考え方です。また、この理論は減価償却が一定の閾値を超えると新たな設備投資が行われるという設備投資のタイミングを説明する際に標準的な考え方となっているものです。日本の物価がこれまで上昇しなかったのは、コスト上昇分がこの閾値を超えなかったためと考えられます。さらに、ある企業が値上げを行うと、他社も追随して値上げをするという戦略的補完性も加わることで、今回のように大きな価格変化のダイナミズムが起きていると考えることができます。

(水田審議官)他の主要国と比べて価格引上げまでの閾値が大きいといった日本企業の特徴や忍耐強さのようなものはあるとお考えでしょうか。

(千賀准教授)資本は減耗するため、一定期間を経ると再投資が必要となります。他方、価格引上げの閾値までの幅は、各国経済の特徴によると考えられますので、国際比較をしてみると面白い結果が得られるかもしれません。閾値までの幅には経済の潜在的なボラティリティが影響を与えますが、一般的に経済の安定性が高まると閾値の幅が広がるとされています。これまで日本の経済運営は、安定を目指してきた側面があると感じます。リスクを低減しボラティリティを減らしてきた経済運営が、皮肉ではありますが閾値までの幅を広げて価格の硬直性を生み出していた側面があるのかもしれません。

 また、物価動向の評価に当たってはマークアップの動向に注目しています。コストが上がったとき、これまで日本企業はマークアップを縮めて対応することが一般的でした。今回の物価上昇局面では、そうしたマークアップの縮小では対応しきれないため、販売価格が引き上げられています。経済学的にはマークアップは死荷重となるため、必ずしも好ましいものとはいえませんが、現実の寡占的な市場において企業がうまく対応しているかどうかを把握できるものとも捉えられます。そうした観点からみると、日本では同じ産業における企業数が多すぎるため、市場のダイナミズムも弱かったと評価できます。

 (水田審議官)春季労使交渉の回答集計の結果、2年連続で物価上昇率を上回るベアが実現しましたが、こうした賃上げの流れは持続的なものとみられていますか。

(千賀准教授)賃金の上昇については、特にプライム上場企業における新卒社員の初任給の上昇が顕著でした。報道でも多く取り上げられ、賃上げへの勢いがつき、良いサイクルが始まったと考えています。新卒社員の給与が賃上げの起点となるのは、大量の学生が同じタイミングで仕事選びをするため、一定の市場が存在し、価格メカニズムが良く働くためです。一方、中途採用の市場は薄いため、こうしたメカニズムはまだ十分に働いていません。ただし、労働市場は概して不完全競争の強い市場でもあり、生産性よりも賃金の水準が低いマークダウンが存在していて、そのマークダウンが縮小しつつあるという観点から労働市場を分析する必要があると考えます。

 新卒の減少が続き労働供給が縮小する一方、労働需要が強い中で、賃金上昇が起きています。このように賃金上昇が人口動態に起因しているため、このトレンドは中長期的に続くと考えています。ただし、企業が賃金を引き上げていくためには生産性を高めていく必要があります。真の生産性を厳密に計測するのは難しく、マークアップなどが含まれる可能性をしっかり認識することが重要だと考えています。企業の付加価値には人件費が入っており、人件費が増加するということは企業の付加価値が増加し、GDPが増加するという点はもっと広めていく必要があると思います。GDPの増加に賃上げが追随していくことは労働分配率の観点からも重要です。

画像:千賀准教授
(千賀准教授)

米国を中心とした世界経済の構造変化

(千賀准教授)日本では、交易条件が悪化している中でも所得と比べて消費を抑え、米国への投資を継続しています。今のところこの構造に問題は生じていませんが、何らかの障壁があってこの特殊な構造が生じているのだとすると、それは改善しなければならないと考えています。一つ考えられるのは国内への投資先が少ないことですが、明確な解は出せていません。内需の拡大にもつながる視点であり、今後も検討していきたいです。

 また、米国は世界中から低金利で資金を調達し、所得以上の消費・投資を行っています。これは米ドルが世界の基軸通貨であり、「法外な特権」(exorbitant privilege)を享受してきたためですが、この構造は揺らぎ始めているとの見方があります。Ferguson(2025) は、スペイン、オランダ、英国、米国という歴史的な覇権国を説明するため「Ferguson’s law」という見方を提唱しています。防衛費よりも国債利払い費が大きくなると、その国は覇権を失うリスクがあるというものです。そして、2025年には米国では防衛費よりも国債利払い費が大きくなりました。米国やドルの地位、日本の投資の在り方について改めて考えていくことが必要であると思います。

 また、日本は中国からの輸入割合が過半となる品目数が多いとのデータ の紹介がありましたが、特定国に輸入を依存することが経済全体のボラティリティにどのような影響を与えるかは、特定国に輸入を依存しているセクターが日本経済に占めるシェア(ドーマーウェイト)がまず重要となります。また、少数の「スーパースター企業」がマクロ経済の変動に大きな影響を持っているとみられています。このため、仮に中国ショックがあったとき、どのようなセクターのどのような企業に影響が及ぶかという点の分析が重要となります。

 一方で、経済全体の生産性を高めていく上では「スーパースター企業」の存在が重要です。このような企業が生まれるようにするための環境整備が政府には求められていると思います。そのためには、資本市場から企業経営に対する圧力がもっと強くなる必要があります。なぜ日本の資本市場の圧力が弱いのか、なぜ資本市場からダイナミズムが生まれないのかについて明確な答えは持ち合わせていませんが、投資家やアナリストによる株価予想や利益予想のダイナミクスを国際比較することで、不確実性や情報伝播など、制度要因で言えることがないか研究を進めています。

人口減少社会への対応

(水田審議官)生産年齢人口(15~64歳)が減少していく中で、我が国が対応すべき今後の課題などお考えをお聞かせください。

(千賀准教授)現在の我が国では、高齢層の労働参加率が過去と比べて増加するなど、若返りの傾向がみられています。労働参加率が低下すると、1人当たりGDPの下押し要因となります。労働参加の拡大は、政府が引き続き取り組むべき課題と考えています。

 それに加えて、今後の我が国において、言語としての英語をどのように捉えるかに関心を持っています。英国と米国で外国人として暮らした経験からですが、英語を日常で使用する国への移住はハードルが低いと感じます。そのため、日本語は高い競争力を持った外国人からのいわば楯となっている面があるのではないかと考えています。本年7月の参議院選挙でも争点となりましたが、外国人との関係をどのように進めていくか議論が十分でないと感じます。この点については、英語が社会にどのように溶け込んでいくかも重要になるのではないでしょうか。

 近年、日本における女性の年齢階級別労働力率を示したいわゆるM字カーブがほぼ解消されていることを海外の学者に示すと驚かれます。女性が結婚や子育てで退職をしてしまうといった日本の特徴とされてきた事象も時間が経てば状況が変わることもあります。また、国連などの人口推計のパフォーマンスが悪かったこともあり、最近、マクロ経済学者の間では人口推計の研究に関心が高まっています。経済成長などあらゆる試算の基となるため、人口推計は極めて重要であり、今後、新たな研究が進むことによって改善されていく可能性があると思います。日本人の健康寿命が延びているなどポジティブな要素もあり、専門外ではありますが関心を持っている分野です。

経済と財政の関係についての新たな潮流

(水田審議官)骨太方針2025では「経済あっての財政」との考え方の下、経済を成長させながら財政健全化に向けて取り組んでいくこととしています。財政健全化に向けた取組についてお考えをお聞かせください。

(千賀准教授)やはり金利の急上昇といった事態を招くことがないようにすることが重要です。英国ではトラスショックが起きましたが、なぜこれまで日本においてショックが起きなかったのかを分析し、それも踏まえて、経済財政に対する市場からの信認を確かなものとしていく必要があります。

 また、最近のマクロ経済学のホットトピックでもありますが、財政健全化に反しない形で財政支出を行いながら経済成長を促すことが可能であることを示す論文がトップジャーナルに掲載され、マクロ経済学者の間でもこうしたメカニズムが広く認識され始めているところです。ブランシャールなどが指摘してきたような経済成長率が金利を上回る状況下だけでなく、経済成長率が金利を下回る場合でもこうしたことが可能になる場合があるということが標準的なモデルで示されていることが最近の議論の特徴です。例えば、Angeletos, Lian and Wolf (2024) は、財政支出を増加させると、経済成長による課税べ―スの拡大とインフレを通じて税収が増加し、財政支出をファイナンスできる場合があることを経済主体の有限性や家計の異質性を考慮したモデルで示しています。このモデルではどのような分野への財政支出が効果的かについては指摘していませんが、モデルを敷衍すると、企業部門では成長につながるセクターに対し政府支出を行うこと、家計部門では所得が増えた時に消費に回す割合が高いMPC(限界消費性向)が大きい主体へのアプローチが財政健全化には効果的ということになります。このような支出が可能となる仕組みを整備することは財政健全化に資すると考えます。

(水田審議官)日本の経済学者でこのトピックを専門に研究をされている方はいらっしゃるのでしょうか。

(千賀准教授)マクロ経済学者が減少傾向にあるのかもしれません、このトピックの専門家となるとすぐには思いあたらないです。具体的には、Kaplan(2025) のように、家計ごとの経済行動の違いを考慮することができるHANKモデル(Heterogeneous Agent New Keynesian モデル)を分析に使用するということなのですが、本国では他国と比べてそういったマクロ経済学者が不足していると思います。この論文では、伝統的に議論されてきた財政政策と金融政策の関係性について、HANKモデルを使って整理しています。日本においても、現在主流になりつつあるこうしたモデルを活用しながら経済や財政の分析を進めていくことが求められます。

画像:水田審議官
(水田大臣官房審議官)

(水田審議官)マクロ経済学者が減少傾向とのことですが、マクロ経済学への関心が失われつつあるのでしょうか。理論を専門とする学者が減少し、実証研究を専門とする学者が増えているとの記事が最近のエコノミスト誌にありました。

(千賀准教授)仰るようなトレンドは実感しているところです。そのため、学生に対して、マクロ経済学者だけでなくマクロ政策を担当するプロフェッショナルキャリアを志してもらえるような動機付けをできたら良いなと日々考えています。また、近年、小泉政権の構造改革のような大きなマクロ経済の動きがなかったことも、マクロ経済学への関心が低下している要因となっているかもしれません。そういった意味では、足下の状況として、賃金と物価が動き出していることに加え、新たな国際秩序への対応も求められている中で、経済理論でマクロ経済のダイナミズムを説明できるようになる面白い時代に突入していくのだと思います。

(水田審議官)長時間にわたり、貴重なお話をいただきありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いします。


1 Autor, Dorn, and Hanson(2013)「The China Syndrome: Local Labor Market Effects of Import Competition in the United States」American Economic Review 2013, vol.103, No.6

2 Ferguson(2025)「Ferguson’s Law: Debt Service, Military Spending, and the Fiscal Limits of Power」Hoover Institution, History Working Paper 202502

3 令和7年第9回経済財政諮問会議・資料2

4 Angeletos, Lian and Wolf(2024)「Can Deficits Finance Themselves?」Econometarica

5 Kaplan(2025)「Implications of Fiscal-Monetary Interaction from HANK Models」the working paper for Econometric Society World Congress semi-plenary session


(聞き手:内閣府大臣官房審議官(経済財政運営担当)水田豊)
(本インタビューは、令和7年8月25日(月)に行いました。所属・役職はインタビュー当時のものです)